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私達の不動産投資体験記

The account of real estate investment experience

 

 

title 私の不動産投資 実録体験記

written by 桃源

私が不動産投資ということをその当時では考えていなかった。ただ会社の人事異動で転勤を余儀なくされると、どうしても社宅の不利から逃れるためにローンを重ね、それが社内では突出してしまったため、自家のほかマンション3戸を持つ「借家持ちの資産家」となってしまったのである。
定年を迎えて自家とマンション1戸を処分すると、いま転勤先で定住することとなったマンションと、収入を相殺するためにローン利息の高いワンルームマンションが残っている。バブルの時期には資産が1億円を遙かに超える不動産になっていたが、いま手元に残ったのは自家の差益で得た税引き後の1千万円強である。それまで家賃収入や修繕費など重なりを相殺すると、わたしは不動産投資の成功者なのだろうか、失敗者なのだろうか。
この体験談は18歳で上京し、60歳で定年退職を迎えるまでの人生で経験したことである。


(1)なぜ家を持ちたかったか 
わたしは1958年高校を卒業を控えて、東京の国立大学など数校を受験したがすべて失敗に終わった。従兄姉たちが東大など国立大学に進学したため親の期待が大きく、わたしも国立大に挑戦したわけであった。1年は浪人覚悟であったので私立大は受験せず、東京の予備校で過ごすことにして上京した。

当時は授業料を除いて毎月1万円の仕送りを受けたが、そのうち2食付きの下宿代に6千円が消え、定期代で約千円、昼食代で千5百円、郵便貯金5百円などを除けば生活費と小遣いが千円ほどしか残らなかった。

当時はまだ早稲田大学に近い高田馬場の裏通りは戦災後たてられた小住宅が密集していて、わたしの下宿では1階の6畳で女主人と3人の子供たちが生活し、2階の6畳にわたし、4.5畳にもうひとりの学生が下宿していたが、賄いは一斗缶を七輪代わりにして、その上にお釜を乗せご飯を炊くような暮らしであった。

翌年、国立大学受験は全滅、やむを得ず私立大学に進学することになった。しかし、どういうわけか、その年に「下宿を明け渡して欲しい」と言われ、世田谷区で新しい下宿屋を見つけた。そこは秋田県から出てきた夫婦で賄われていたが、食事はひじょうに貧しく、薄い味噌汁のなかのだしジャコさえ探すほどであった。

こうして1年が過ぎたころ、どうした訳か最初の下宿の女主人が「もう一度、戻ってこないか」と誘ってくれた。しかし、1年もたたないうちにまたもや明け渡しを求められたのであった。1ヵ月の猶予期間内に新しい下宿を見つけることが出来ず、やむを得ず受け入れてくれた幡谷のキリスト教会の礼拝堂脇に止めてもらうこととなった。
数カ月お世話になった後見つけた下宿は玉電の「真中」にあった。大きな家に付随していたが、3畳間の押し入れ上段を少し広くしてベッドとし、回りをガラス窓にしているので冬の寒さはとりわけ厳しかった。ところが女主人は石油ストーブからの火災が怖いと使用を許してくれなかった。そしてここも1年もしないうちに立ち退きを求められたのである。

これはかなり後で知ったのであるが、女主人は乳癌を患い入院するためやむを得なかったのだという。わたしはそこから玉電で一駅の駒沢に移った。この下宿の女主人は高齢で、やがて体調をを崩すと同時に養老院に入ることとなり、またしても転居を余儀なくされたのである。

そして大学生活最後の1年を渋谷にあった恩師の古い別棟でお世話になったのである。卒業と同時に就職し、会社の独身寮でやっと落ち着くことが出来たのであった。このように自ら進んで転居したわけではない、むしろ長く住みたいのに叶わなかったという5年間の経験が、いつか、それもできるだけ早く自分の家を持ちたいという思いになった。

(2)最初の家を持つ
大学を卒業した1965年ころはまだ東京でも地価が安く、西武線の下井草駅の近くで坪2万円、100坪で200万円の土地を見つけて父に借金を申し出たが、見事に断られた。(日雇労働をニコヨン=240円/日と呼んでいた当時、婿養子の父には無理) わたしはある橋梁製作所から独立したばかりの小さな建設会社(橋梁架設、鉄骨構造物施工)に就職した。

最初は経理課に配属されたが、2年目には現場工事の経験を積むようにという会社の計らいか、工事現場の事務担当として現場に出され、その後は大阪万博関連で集中する工事取りまとめの事務所を大阪に開くため親会社の独身寮暮らしとなった。

寮生活では給料の半分は残る。そして現場に出れば現場手当てで生活でき、給料や賞与がそっくり貯金が出来た。そしてインフレ傾向にあった当時、2万円余りの給料が数年で4万円を越したが、わたしはそれほど苦労することもなく3年ほどで100万円の蓄えをすることが出来たのである。そしてその蓄えと親から借りた60万円を頭金にし、地元の信用金庫から80万円のローンを受けて最初の家を買うことに成功した。

東横線沿線駅から徒歩20分(バスなら7〜8分のバス停から歩いて5分の丘の上)の高級住宅街の1区画を5戸に別けて分譲された建売住宅で、1戸当たりの平均敷地面積は私道込みの14坪から15坪であった。

その中でわたしが選んだのは敷地が14坪、建坪延べ12.5坪の2階建てで、218万円であった。当時はまだどの銀行も住宅ローンにそれほど力をいれていなかったので、都市銀行や地方銀行ではわたしのような独身者には住宅ローンは借りられなかった。

ところが、地元では有力であった不動産屋と信用金庫が内々合意して「不動産屋の社長の娘と婚約している」とのことでローンにこぎ着けたという裏話がある。こうして手に入れた小さな一軒の家が、折りからのインフレ的な給料アップと不動産価格の高騰で、わたしは思わぬ方向にどんどん流されていくのである。

(3)住み替えか、家転がしか
 わたしは1970年に結婚することになった。婚約者は幼稚園の先生をしており、音楽をこれからも続けたいことからピアノを持ってくるといった。ところが、1階には4.5畳の和室と3畳の台所しかない。すると建築業をしている彼女の兄が静岡から大工を連れて来て、たちまち3.5畳ほどの居間を建て増ししてくれた。こうして新婚生活が始まったが、嫁入り道具を最小限にしてもらったにもかかわらず、いかにも家が狭かった。(国勢調査のとき思わず笑ってしまったのは、4LDKを畳数で表せば、たったの20畳しかないということであった)

「子供が生まれて、妻の母と叔母が手伝いに来てくれたが、この狭さ何とかならないか」と思って新聞の広告などを見ていると、すでに不動産価格がぐんぐん高騰しているのが目に見えた。いくつか適当な候補を選んで、広告内容について聞いてみたが、どうやら囮らしくてそんなに甘い話がなかった。

そこでこの家を買うときにお世話になった網島駅前の不動産屋に、この家の値踏みをしてもらうことにした。すると翌日電話があり「この家を450万円で買いたい人が現れたが、どうするか」との問い合わせがあった。「どうするかって、言われても困るな。どうしようか」と妻に相談し、不動産屋と相談した結果「この家を頭金にして、いま不動産屋が持っている土地、私道含み38坪に建坪23坪の注文建築を建てて1000万円でどうか。この家は新しい家が立ち上がり、引っ越し後に引き渡す条件なら問題はないだろう」と言われ、さらに借金を増やすこととなった。

 ところが金利が安い社内融資を申し込みに行ったところ、総務部長から「君には大阪に転勤の予定があるから、契約するのを待ったほうがよいのではないか」と言われた。しかし不動産屋とは口約束とはいえ契約は契約である。この家に買い手がついて、いまさら断れる状況ではなかった。そこで社内融資を受けるのを諦め、全額銀行から融資を受けることにして工事を着工した。

明け渡しはわたしの転勤と同じ1972年の4月である。わたしは転勤が決まっていたものの、自分たちが必ずここに帰ってこられると信じて自分で間取りを設計し、洋間には作り付けの机と書架、ピアノ置き場の床補強などと工夫を凝らした。そして不動産屋の担当者、大工の棟梁、わたしが同い年辰年生まれということで、施工の段階で思わぬサービス(棟梁の工夫と試行によるグレードアップ)があった。

彼の工夫は凝ったデザインの階段であり、階段の壁には肩の高さまで鉄平石が張られていた。玄関外まわりも鉄平石が張られ、ガラスブロックが使用された玄関は明るかった。そしてそこには彼手作りの下駄箱が扉と同じ真っ黒な化粧板を使って設えられていた。
「ああ、これがわたしたちの終の住処にになるんだな」とその出来ばえに満足し、転勤から戻る日を期待したのであった。


(4)転勤者用社宅か持ち家か
 わたしたちは4月の転勤が迫って荷物を整理し始めていた2月の初めころ、突然この家に入居する予定の人から「3月に転勤で上京するので、3月初めには入居したい」と言ってきた。わたしたちは転勤を控えてほんの身の回りの荷物を解いて一ヵ月を過ごしていたが、こんどは自分の家から追い出される事態となってしまった。

荷物を一時預かってもらい、親類に泊めてもらうなどして4月1日を待って、大阪で準備してくれていた借り上げ社宅に転居して行ったのである。当時の会社の規定では社宅は一時的な使用として結婚と同時に申請できるものであったから、2DKが基準であってもやむを得なかった。

しかしすでに持ち家があり、所帯を持つ者の永住転勤などの想定はなかったようで「転勤者用の社宅は2DKを基準とする」となっていた。わたしは荷物が多いことを訴え、総務部長もわたしの状況を理解して3DKを承認してくれたが、その畳数は2階和室4.5畳、洋間4.5畳、一階和室4.5畳、台所4.5畳で、合計畳数18畳しかなく、最初の家よりも狭くなってしまったのである。

2階の洋間は荷物置き場となって住空間はほとんどなかった。そこに二女が誕生し、手伝いにきてくれた妻の母と叔母が2階に、夫婦と子供たちが1階にという生活の厳しさとなってしまったのである。

この状況をわたしは転勤者社宅の特例として総務部長から内諾を得ているが、3DKでもこの状況である。これから大阪営業所が拡大するに連れて増える同僚には認められないとすると不条理である。そこでわたしは労働組合も要求していない「大阪転勤者社宅の特例」を総務部長にかけあい「日本住宅公団の賃貸住宅に入居するものに限り、3DKは特認する。ただし、公団住宅は申し込み後の抽選であり、転勤時に入居することが出来ないので、当面民間の賃貸住宅の2DKに入居し、1回限り公団住宅に転居することを許可する」というものであった。当時の家賃は公団住宅のほうが民間より安く、3DKであっても民間の2DKに入居し続けるより、本人にも会社にとっても経済的であったという条件も存在したために特例と認められる可能性があったのである。

 ところが、このような条件を飲んでもらったからには、わたしも公団住宅に申し込むべきであるというのは明白である。そして当選した公団住宅は和室6畳、6畳、4.5畳、台所6畳と畳数は確かに広くなったが、その畳はいわゆる団地サイズでかなり小さかった。

わたしは実際に部屋を見るまで、公団ならすこし余裕が出るのではと思っていただけに、さてどうするべきか、はたと困ってしまった。ちょうどそのころからオイルショックの影響が出始めていたころで、マンション建設がようやく大阪地区でも広がり初めていたときである。そのころ茨木市で3LDK〜4LDKでで75〜95u、約550〜650万円のマンションの広告が何度も新聞に挟まれてきた。

すでに網島の家で借金を増やし手元にほとんど現金がなかったが、わたしは妻と相談して両方の父親に頭金の借金を申し込んだ。網島の家をある建設会社の社宅として貸すことができたので家賃が入るから、こちらのマンション購入によるローン返済にも多少まわすことができると踏んだからである。

そして両方から頭金となる200万円を借りる承諾を得て、住宅展示場に電話すると「もう分譲戸数を上回る人が並んでいる」とのことであった。信じられないことであるが、そのころすでに同じような広さの分譲マンションの価格は900万円を越し始めていたので、アルバイトにかなりの日当を払って数週間並んでもらっても差益が大きいと考えた人がいて当然だったのである。

わたしはこのマンションを諦めた。そしていまの社宅に居すわることも可能であった。しかしすでに社宅を出ようと一度決心したものだから、もう後戻りする気がなかった。そこで、高騰してしまったものの、他と比較してまだ可能性のあるマンションを高槻市で見つけて下見をした。分譲価格918万円の3LDKで64uしかない。しかし12畳あるLDKは広く、ダイニングテーブルが置ける、大型食器戸棚が置ける、ピアノも置ける・・・と夢が大きく膨らんだ。

(5)持ち家のローン返済利息と家賃収入と貸家のリスク
 2軒の家を手に入れて1千数百万円のローンを抱えることとなったが、網島の貸家から家賃があがるからと、かなり楽天的になっていた。ところがそこには落とし穴があった。
家賃が給与所得に加算されて課税されるのである。ところが、借り上げ社宅の会社負担金を超える個人負担分が所得控除されるわけではない。
そしてもう一つのリスク、家賃滞納があった。わたしはある会社の総務部長の社宅として貸していた。ところがその当人から「系列会社の方に出向し、社長室付きとなったので、新しい会社との契約で継続して入居させてほしい」という申し出であった。わたしは会社契約ならやむを得ないと思い同意したが、それが失敗であることを思い知らされるのである。

数カ月後から家賃の滞納が始まり、督促を重ねてやっと1ヵ月分が入るが、また遅れるという状況が続いたので、会社に支払いを督促すると「彼は会社の印鑑を勝手に使って契約したもので、会社は関係がない。会社は支払う義務がないので、払う積もりはない。訴訟するならするがいい」とのこと。羽振りがよかった不動産会社もバブルで沈没したらしい。

そして彼とはほんとうに縁がないのか、つるんでいるのか不明だが会社には払う気がないのは明白であった。「こうなれば本人を捕まえるよりしようがない」ということで、義父や義兄たちと一緒に夜討ちのごとく、宵から翌朝まで彼の帰りを密かに待ち受け、彼を捕まえて2年間の滞納の支払いを迫った。

彼は「自分には支払い能力がないので、友人に頼る。立て替えて払ってくれる人がいる」というので、義父は彼とその友人宅に赴き、退去するまでの期日の家賃に相当する金額の手形を受け取り、やっと現金化することができたのである。
しかし、彼らの退去していった後は悲惨な状態であった。子どもの狼藉で部屋の壁には落書きあり、シールが張られ、あるいはベニヤ板が蹴破られ・・・便所の便器は壊され、たらいの水で便を流す・・・階段の板の端や障子の桟には埃が数ミリ積もっている・・・書架のガラスは割られたまま・・・台所の周辺は油でギトギト、ベタベタで魚焼器の中には網の下に油汚れが数センチ溜まっている・・・もう書きようがないほどの荒れ方であった。家賃はなんとか回収できたものの、つぎの入居者を迎えるために100万円以上の修理費を負担することになってしまった。

(6)転勤か通勤か微妙な立場に置かれて
 わたしは1973年に瀬戸大橋の架設工事が始まったとき、そのなかの岩黒島橋架設工事の現場事務所に赴任することを命じられた。マンションを借りての単身赴任、寮生活であった。子供たちの育ち盛り、父親の必要な時期であったと思う5年間をこうして現場で過ごし、2週間に1度の休暇で自宅に帰るのも憚られる生活であった。そのころはまだバブルの中にあり、家賃収入が所得を押し上げて税負担が大きいため、節税方法としてワンルームマンション960万円のものを頭金わずか180万円で買い、その金利を経費として計上する方法を取った。

そのころはまだまだ不動産価格が高騰を続けており、今のような値崩れなど想像さえできなかった時期である。頭金と毎年差損の10万円ほどを30年払えば自分のものとなる、そのとき幾らで売れるか・・・と期待したのである。
それはさておき、1978年に瀬戸大橋現場から大阪支店に帰れたと思ったら、すぐまた兵庫県加西市にある機材整備工場へ赴任を命ぜられた。そこは大阪梅田から高速バスで約85キロ離れた最寄りバス停からさらに5キロほど離れたところにある。
わたしはここは社内規定による遠地(100キロ以内)であるから、転勤ではないと勝手に理解していた。しかしそのとき支度としていた高槻からは100キロ以上あり、通勤は不可能であった。しかしこれ以上家族が離れて暮らすのは耐えられないから、通勤可能な場所に住みたいと思ったので、最も条件に合う宝塚市で借家をすることにした。

いま住んでいる家を貸せば、借家の家賃が賄えると計算したのである。ところが、目をつけた借家にしたいマンションの隣に売れ残っていたマンションがあり「そこで犬を飼うことができる」と聞いた子どもたちがどうしてもこのマンションに住みたいと願ったので、思い切って2600万円で買うことにした。わたしはここから高速バスで通勤すればいいと思っていたが、上司はそれを許さず、社宅に入居する単身赴任となった。家族から切り離され、転勤ではないのに社宅使用料を取られるという不思議な扱いとなった。こうしてわたしは一戸建てとマンション3軒、計4軒の家を持つ身分となった。そしてバブル最盛期にはその評価額は1億円を遙かに上回る不動産となった。

(7)バブルが弾けて
やがてバブルが弾けて、この不動産の評価額がどんどん下がっていった。その上に貸していた不動産のトラブルがますます大きくのしかかってきたのである。転勤によって空き家になる「家を貸すには家賃滞納というリスクは付きもの」と覚悟はしていたものの、自分に降りかかってくるとは夢想だにしなかった。そして借り主は自分の家のようにケアしながら住んでくれないものであることも思い知らされたのであった。

そして網島の家では次の入居者とのトラブルも退去時にわかった「借り主の借家意識によるケア不足で生じたと思われる家の傷みの責任をどう分担するか」であった。自分の家なら雨漏りや水漏れを、多少のことなら自分で修理するだろうに、また自分の手に負えないなら家主に修理をするよう申し出るだろうに、それを放置していた結果、退去時にわかったのは水漏れによる屋根裏の木材の腐食で、これがまた修理費が100万円単位でかかるということであった。

そして最後のトラブルは次のようにして発生した。社宅として貸すことを希望していたが半年たっても入居者が現れず、不動産屋から「旧知の小さな建設会社の社長が借りたいと言っているが、貸してもらえるか。このまま放置すればいつ客が付くかわからないし、多少家賃が下がっても塞がっているほうが得だよ」という申し出で貸すことに決めたことが裏目となったのである。

バブルが弾けた後も彼は堅実に事業を続けていたらしいが、ある時を境に家賃の滞納が始まった。不動産屋から聞くところによると「自ら事業で失敗したのではなく、不渡りを掴まされて運転資金に窮したのだ」という。そして重機や機材など資産を剥がされ、息子と労働者として働いている状態で食べるのが精一杯であり、家賃を支払える状態でないことがわかった。

わたしはすでに定年を迎え、年金生活者として宝塚に落ちついている。今更横浜に移り住むことはできない。「終の住処と建てた家」にはついに住むことなく手放さなければならなくなった。そこで彼に立ち退きを要求したが、立ち退く先がないのである。家賃を踏み倒された上に立ち退き料はまさに「泥棒に追い銭」、馬鹿馬鹿しい話であるが「彼の立ち退き先を不動産屋に見つけて貰い、3ヵ月分の保証金と1ヵ月分の家賃をこちらで負担して契約させることで立ち退いてもらう」という条件で明け渡してもらうことが出来た。そして300万円余りの修繕費をかけて約3,500万円で売却した。

また高槻のマンションの入居者も退去し、価格も下がりつづけるので、処分することにした。こちらは阪神淡路大震災で被災したこともあって原価割れである。こうしていま手元に残った不動産は、京都にあるワンルームマンション(960万円で購入がいまでは300万で売れるだろうか、まだ残債が500万円ほど残っている)と自宅(2600万円で購入したが最近売られている同程度の区分の価格は1000万円程度まで下がっている)の2軒であり、3500万円で売れた1戸建ての家からは500万円あまりの諸税と年金にプラスされて生じる所得税、国民年金、国民健康保険料などの追徴を合わせるとかなりの税額となった。

わたしは好んで不動産投資をしたわけではなく、就職、転勤に合わせてやむを得ない事情でこのような経緯をたどってきた。はたしてわたしは不動産売買によってどれだけの利益を得て、それだけの損失を被ったのだろうか、それを検証したい訳ではないので思いつくままをここの記してみた。
改めてこうして振り返って見ると、最も利益を上げているのはこの経緯から税収を得ている国であり、地方自治体ではなかったかと思われるのである。

財部敦監修 フィクションであり、特定の個人名、団体名、地名等実在のものと一切関係ありません。

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